朝井リョウ『生殖器』感想|“正しさ”に縛られず、自分として生きるということ
現代社会における“生”のあり方や、“正しさ”の輪郭を静かに問いかけてくる一冊、朝井リョウさんの『生殖器』。
この作品には、異性愛を前提とする社会構造の中で、自らの違和や孤独と向き合いながら生きる人々の姿が、驚くほど丁寧に、そして淡々と描かれています。
物語の中心にいるのは、自分を“異性愛個体ではない”と認識する登場人物たち。彼らは、社会の「正しさ」から逸れていることで、ときに自分自身をも否定しかけながら、それでもなお自分として在ろうとする——その過程が、本作では静かな筆致で紡がれていきます。
そして読み終えた今、私は「自分として生きるとは何か」を、改めて深く考えずにはいられませんでした。
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「生きるとはなにか」を静かに突きつけられる
> 「どの個体も、生命体としては死を、共同体としては縮小と崩壊を無意識レベルで避けて生きており…」
この一文を読んだとき、私はハッとさせられました。
私たちは日々、生き延びるために「避ける」ことを無意識に繰り返しているのかもしれません。死を避け、孤立を避け、共同体からの逸脱を避ける。それが自然な行動であると同時に、どこか生の核心から遠ざかっているようにも感じます。
> 「金銭の調達能力がほぼイコール生存率の向上を意味する」
この現代批判も鋭く響きました。
やさしさや誠実さよりも、稼ぐ力が“生き延びる力”とされる社会。
だからこそ、貧しさは個人の価値の低下とみなされ、「生まれただけで許される」感覚は奪われてしまう。私たちはそんな構造の中に、無自覚に絡めとられているのだと痛感しました。
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「他人の目」と「自分の軸」のあいだで
> 「他人の目、自体がコロッと変わるからアテにならないってこと」
この言葉には、大きな気づきがありました。
「他人の目を気にしすぎるな」と言われても、それがどれだけ不確かなものかを理解していなければ難しい。
むしろ、“他人の目”そのものが信頼に足るものではないという前提に立てば、私たちはようやく「自分で決めていい」と思えるのかもしれません。
僕のように、他人の視点に立ちすぎてしまう人間にとっては、とても響く指摘でした。
> 「だったらまずは、“する”っていう意思表示を選んでみようかなって」
このセリフも、静かに背中を押してくれる言葉です。
私たちは「やらない理由」を巧みに並べがちですが、実は「やってみたい」という気持ちがあるからこそ、避けようとしているのかもしれない。
小さくても「する」と声に出す——それは社会に対してではなく、自分自身への肯定なのだと思います。
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「排除の力学」は自分の中にもある
本作を読みながら、私は自分自身にも「排除する目線」があったことに気づきました。
異性愛を前提とする社会構造の中で、“異なる存在”を無意識に「怖い」「わからない」と感じていたかもしれない。
そうした視線は、制度としての差別だけでなく、私たち一人一人の内側にも静かに根を張っている。
『生殖器』は、それに気づかせてくれる作品でした。
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最後に|「自分として生きる」ことは可能か?
『生殖器』は、読者に「あなたは何を信じて、どんな生を選ぶのか?」という問いを投げかけてきます。
社会が求める“正しさ”に合わせて自分を抑えるのではなく、“正しさ”そのものを疑い、自分にとって誠実な道を選ぶこと。
> 「封殺されてきた尚成が、いま“さゆえ”の発明に幸福度を預けている」
この描写に、私は救いを見ました。
封じられてきた欲望や気質に光を当て直し、否定されてきた「わたし」を、そのまま認めてあげること。
それこそが、私たちがいま手にすべき“正しい欲”の形なのかもしれません。
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