若林正恭『ナナメの夕暮れ』感想|“正面”が無理なら“ナナメ”に、それでも人生は続いていく

若林正恭『ナナメの夕暮れ』感想|“正面”が無理なら“ナナメ”に、それでも人生は続いていく

「自分というのはもっと高尚な人間なんだ」と思い込み、現実の自分を受け入れられなかった時期が、確かにあった。

若林正恭さんのエッセイ『ナナメの夕暮れ』を読みながら、何度も胸を突かれた。
それはまるで、自分の中にこびりついていた“自意識”のかたまりを、静かに、しかし確実にほぐしていくような時間だった。

理想の自分に縛られて、「今日」を置き去りにしてきた

若林さんは本書で、自分がずっと「理想の自分」を追いかけて生きてきたことを明かす。
“もっとすごい自分”、“もっと面白い自分”になるために、「今日の自分」を置き去りにしてきた、と。

「自分というものはもっと高尚な人間なんだ」と言い訳(逃避)をして、今日の自分をないがしろにしてきた。

この一節を読んだとき、僕もまた、どこか“未来の理想の自分”を生きているような感覚があったことを思い出した。
「今の自分は仮で、いつか本当の自分になれる」と信じているから、今の弱さも未熟さも、見ないようにしてきた。

でも、そんな生き方では、いつまでたっても“今”を楽しめないし、自分を肯定できない。

“外のジャッジ”ばかりを気にして、自分の判断ができなくなる

他人からどう見られるかを気にしてばかりいると、自分の「判断軸」がどんどん曇ってくる。
「自分は本当はこう思っている」「こうしたい」という気持ちさえ、どこかへ消えてしまう。

外のジャッジに気を取られすぎると、自分のジャッジを蔑ろにしてしまう。

僕自身、何かを選ぶときに、まず「どう思われるか?」を気にしてしまうことが多い。
そのたびに、自分の感覚にフタをして、無難なほうへ、正解っぽいほうへと流されてきた。

けれど、外の正解が必ずしも自分にとっての正解ではない。
「そんなふうに思っちゃってもいいんだ」と、自分に許可を出してあげることのほうが、よっぽど健やかなんだと思う。

“正面”に向かえないなら、“ナナメ”でいい

印象的だったのは、こんな一節だった。

エネルギーを“正面”に向けられなくなったら終わりではない。“ナナメ”に向ける方が、全然奥が深いのかもしれない。

「こう生きなきゃ」「まっすぐ努力しなきゃ」
そんなプレッシャーに押しつぶされそうになることがある。

でも、正面突破だけが人生じゃない。
むしろ、力が入りすぎていたものを少し脇にそらすことで、思わぬ深みにたどり着くこともある。

“ナナメ”でいい。遠回りでもいい。
まっすぐに進めないときこそ、自分のペースで、ちょっと横道を歩いてみてもいい。

「気にしすぎる自分」とどう付き合うか

若林さんはこうも書いている。

気にしすぎない薬があるなら、常用したいぐらいだ。

「気にするな」なんて、簡単に言えることじゃない。
生まれたときから気にしすぎる性格で生きてきた人間にとって、「気にするな」は、ただの理不尽な命令にすら聞こえる。

だから、気にしすぎる自分を否定するのではなく、
「そんな自分でも、生きていていい」と認めていくことのほうが、ずっと大事だと思う。

年齢を重ねることで、自意識は少しずつ軽くなっていくかもしれない。
けれど、それを“待つ”だけじゃなくて、今日から少しずつでも、他人の目よりも「自分の目」を大事にしてみたい。

人生は、“合う人に出会う”ことで変わっていく

ほとんど人生は“合う人に会う”ってことで良いんじゃないか。

この言葉に、深くうなずいた。

僕自身、人生の転機にはいつも「誰か」との出会いがあった。
その人に出会ったから、変われた。話を聞いてもらったから、救われた。

無理して“万人に好かれる自分”にならなくてもいい。
“合う人”と出会えれば、それだけで人生は少しずつ、やさしくなっていく。

おわりに

『ナナメの夕暮れ』は、「正解のない世界」で生きるすべての人に向けた、等身大の応援メッセージのようだった。

まっすぐ生きられなくてもいい。
気にしすぎる自分でもいい。
うまくいかない日が続いたって、ちゃんと「今日」は積み重なっていく。

今の自分を、少しずつ、許していこう。
そして、“ナナメ”な視点でしか見えない景色を、ちゃんと味わっていこう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました