西加奈子『うつくしい人』感想|誰かの目を気にして生きる私へ

西加奈子『うつくしい人』感想|誰かの目を気にして生きる私へ

西加奈子さんの小説『うつくしい人』を読んだとき、心の奥にずっと引っかかっていた思いが、そっと言葉になった気がした。

私の行動の基本は、全て恐怖から来ているように思う。

この一文に出会ったとき、思わず胸が詰まった。社会に取り残されること、誰かから嫌われること、できないと思われること、悲しいと思われること——私の中にも、そんな恐怖が根強くあったことを認めざるを得なかった。

自意識過剰と「誰かの目」

自分でも気づいていた。中学生の頃から変わらない“自意識過剰”な自分。喫茶店で隣に座る人にすら「よく思われたい」と思ってしまう。でも、ふと考える。

いったい僕は、誰に嫌われたくないのだろう?

家族、友人、職場の人たち。関わりが深ければ深いほど、嫌われたくないという思いは強くなる。一方で、その誰かに「認められたい」とか「見てほしい」と思っているのかもしれない。作中の主人公が、

私が見てほしいのは姉なのではないか。

と気づいたように、僕にも「特別に見てほしい誰か」がいるのかもしれない。

存在するだけでいい、ができない私たち

そのままそこにあり続ける、ただそのことが、私には出来ないんです。

海のように、ただ静かにそこに存在している人たちへの憧れと、そんな自分になれないという苦しみ。この気持ちはとてもよくわかる。自分をどこか「不完全で惨めな存在」と思っているからこそ、他者からの評価を欲しがってしまう。そしてまた、評価が気になり、自分を偽ってしまう。その繰り返し。

でも、海だっていつも美しいわけじゃない。曇りの日も、嵐の日もある。そんな海を見て、主人公はこう思う。

では、私が変わることくらい、環境によって自分を見失ってしまうことくらい、起こりうることなのではないか。

完璧な日なんてなくていい。感情の波があってもいい。自分が変わること、揺れることを許せるようになりたい。そう思った。

捨てることも、大切なこと

吸収すること、身につけることだけが、人間にとって尊い行為なのではない。

何かを捨てていくこと。それが今の自分には必要かもしれない。ここ数年、仕事、責任、人間関係…いろんなものを抱えすぎて、身動きが取れなくなっていた。捨てたくても捨てられない。優先順位をつけるのが難しくて、どれも中途半端に抱えている気がする。

でも、一つだけはっきりしていることがある。

妻と息子と歳を重ねていく。

こと。それが、なにより大切で、揺るぎないもの。その核さえ持っていれば、他のことは少しずつ手放していってもいいのかもしれない。

誰かの「うつくしい人」でありたい

私は誰かの美しい人だ。私が誰かを、美しいと思っている限り。

誰かを、心から「うつくしい」と思う瞬間がある。それは、相手が完璧だからではない。むしろ、弱さや迷いを抱えながらも、まっすぐ生きている姿に心を動かされる。

そうであるなら、自分もまた、誰かにとっての「うつくしい人」になれるかもしれない。自意識過剰な自分を抱えながら、それでも誰かを思い、何かを選び、歩いていくその姿も、美しさのひとつなのではないかと思う。

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