朝井リョウ『正欲』感想と考察|多様性・正しさ・欲望をどう受け入れるかを問い直す一冊
朝井リョウさんの小説『正欲』を読んで、私たちが当たり前のように信じている「正しさ」が、いかに脆く、偏っていて、時に誰かを傷つけているのかを突きつけられるようだった。
この小説の中では、正しさとは「出口のないもの」として描かれる。正しさを主張すればするほど、他者の正しさを否定してしまう。多様性を掲げながらも、「それを否定する声は許されない」という構造になっていく。多様性の中に、実は“不寛容”が潜んでしまっている。
正欲を批判するのもまた正欲であるように、多様性には多様性を否定する多様性の場所がなく、寛容は不寛容に対しては不寛容にならざるをえない。
この言葉の鋭さにはっとさせられる。誰かのための正義や寛容が、別の誰かを排除する力に変わっていく。その矛盾に無自覚なまま、私たちは「正しい」と信じる価値観を振りかざしてはいないだろうか。では、もう何も「正しい」と思ってはいけないのか?そんな問いを突きつけられました。
欲望についても、本作は一面的な否定をしない。
欲は一方で他者を排除し、破壊する。だけど同時に、他者を肯定し、深くつながることを可能にしてくれるものでもある。だから、正欲を否定し、抑圧するだけでは問題は解決しない。
人と人とが深く関わるためには、欲というものとどう向き合うかを避けて通れない。誰かを理解しようとすること、誰かに触れようとすることには、正しさでは測れない衝動がある。それを“排除するもの”として片付けてしまうのは、あまりに短絡的だ。
とりわけ印象に残ったのは、以下の一節だった。
世の中を構成する最小単位は恋愛感情で繋がっている異性同士の二人組であるように見えていた。その単位を元に家族を始めとする様々な制度が構築されているし、まずはその単位になることを目的に走れと様々な方向から促され続けていると感じていた。そして、そのことにこんなにも悩むのは、自分が異性愛者だからだと思った。だから自分には様々な選択肢がある。だったらそんなもの、いらない。
「異性愛者だからこそ、制度の“枠内”にいる」。だからこそ、そこにある選択肢の多さも、それに縛られる息苦しさも、本人にとっては重荷になるのだろう。恋愛や家族の「こうあるべき」姿を押しつけられる苦しさは、制度の内側にいる人にも起こり得る。
正しさは、誰かにとっての正しくなさ。何かを正しいと思うことは、何かを正しくないとする。
私たちはこの構造の中でしか生きられない。でもその中で、どうすれば少しでも楽に、楽しく生きていけるのか。明確な答えはないけれど、その問いを持ち続けることが、少しずつ自分と他人を楽にする。
そして、現代において頻繁に使われる「多様性」という言葉にも、小説は厳しい視線を向ける。
多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。
耳障りの良いスローガンの裏で、本当に自分とは違う誰かを理解しようとしているのか。多様性を掲げることで、安心してしまっていないか。理解することの苦しさ、想像することの限界にまで踏み込んで初めて、多様性は意味を持つのだと思わされる。
不安だから、周囲の社員を巻き込んでまで噂を流すのだ。あいつを異物だと思っているのは自分だけじゃないと確かめたかった。
人を排除したがるのは、強さではなく不安の裏返し。異物を指さして笑うことで、「自分はこっち側」と確認しようとする私たちの弱さ。それはとても身近で、他人事ではいられない感情だ。
多様性って言いながら、一つの方向に俺らを導こうとするなよ。
このセリフに込められた違和感は、多くの人の心に刺さるのではないだろうか。「違っていていい」と言いながら、実際にはひとつの“正解”を用意しようとする社会の動き。それがどれほど残酷か、想像したことがあるだろうか。
『正欲』は、正しさ・欲望・制度・多様性といった言葉を、真正面から見つめ直すための一冊だった。安心や答えを与えるのではなく、読者の中に問いを残していく。だからこそ、読後に感じた静かな混乱は、長く心にとどまり続ける。
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