しんめいP『自分とかないから』感想|「こうあるべき」から自由になる哲学
最近、何かがずっと苦しかった。ちゃんとやろうとするほど、肩に力が入って、思うように動けなくなる。そんな時に出会ったのが、しんめいPさんの『自分とかないから』という一冊でした。
「自分とは何か」を問う哲学的エッセイ
この本は、「空(くう)」の思想をもとに、現代社会における「自分」や「アイデンティティ」の捉え方を根底から問い直していく一冊です。仏教や禅の考え方がベースにあるものの、堅苦しさはまったくなく、むしろ口語的で読みやすい。それでいて、「本当に自分ってあるんだっけ?」という根源的な問いに、何度も立ち止まらされます。
本書では、「善」「悪」、「個性」「性格」「アイデンティティ」など、私たちが「自分」にくっつけて信じてきたラベルを、ひとつずつ剥がしていくような視点が提示されます。そしてその先に現れるのが「無我」という境地。つまり、「本当の自分」なんて存在しないということです。
「悟った、ということは、『本当の自分』の答えが見つかったということである。いつだって、その答えは『無我』だった。」
この引用に出てくる“無我”とは、決して空虚なものではありません。むしろ、「自分」を手放すことで、より柔軟に、自由に、そして他者と共に生きられるようになるという、希望に満ちた思想です。
自分を「演じる」苦しさからの解放
「すべてが変わっていくこの世界で、変わらない『自分』をつくろうとする。そんなことしたら、苦しいにきまってるやん。」
この一文は、まさに今の自分に突き刺さりました。職場でも家庭でも、「ちゃんとした理学療法士であらねば」「頼れる父親でなければ」と、変わらない“役割”を守ることに必死だった自分。その苦しさは、まさに“変わらない自分”を無理につくろうとしていたからだと気づかされました。
「卒業式。今日で『学校』というフィクションが消滅する。『生徒』も『先生』じゃなくなって、『先生』も『先生』じゃなくなる。『自分』がなにものでなくなる。」
この場面描写も印象的でした。学校という「フィクション」の中で演じていた“先生”や“生徒”という役割が消えたとき、人はぽっかりと立ちすくみます。でもそれは、空っぽになったことではなく、むしろ「ほんとうに自由になれる」瞬間なのだと教えてくれます。
「善」「悪」さえも、フィクション
「『善い』『悪い』もおおむね。ぼくはついつい、だれかを『本質的に善いひと』だとか『本質的に悪いひと』だとか決めてしまう。」
この一文を読んで、どれだけ自分も“本質”という幻想に縛られていたかを思い知らされました。誰かをラベルで決めつける。それは自分自身も「こうあらねば」と縛りつけることと同じなのだと思います。
「不変の『個性』、不変の『性格』、不変の『アイデンティティ』は、ありえないの。」
これもまた、今まで信じてきたものをくつがえされる一言でした。自分の「性格」や「キャラ」を必死に守ろうとするよりも、「今、どうありたいか」を選び続ける柔らかさこそが、本当の意味で“自分らしい”のかもしれません。
「自分」がなくても、めちゃくちゃいい
「自分が『ダメ』とおもった瞬間、『あ、言葉の世界に入ってるな』と認識するだけで、ぜんぜん違う。」
言葉の世界——つまり、「自分とはこう」「こうあるべき」といった言葉でできたフィクションの中で、私たちは無意識に苦しんでいる。それに気づいたとき、その世界からスッと抜け出せる。そんなふうに書かれていて、とても救われました。
「『自分』がなくなって、めちゃくちゃもいい。」
この感想も、まさにこの本を読んだ後の自分の心境そのものです。役割やラベルがなくなっても、自分はここにいる。いや、むしろそのほうが、ずっと自由で、ずっと優しくいられるのではないかと、今は思えています。
おわりに|空っぽの中にこそ、自由がある
『自分とかないから』は、「空っぽ」や「無我」といった言葉を、どこまでも実感として落とし込んでくれる本でした。読む前は“自分をなくす”なんて怖いことだと思っていたのに、読み終えた今は“自分がなくても大丈夫”という、温かい気持ちで満たされています。
「こうでなければ」という呪いから自由になりたいすべての人に、この本をそっと手渡したくなる。そんな一冊でした。
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